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名言「好きの反対は無関心」の元ネタ・漫画・嘘だと思う理由

Author nopic icon綾辻薫
カテゴリ:名言・格言

更新日:2020年08月29日

名言「好きの反対は無関心」の元ネタ・漫画・嘘だと思う理由

「好きの反対は無関心」って誰の名言?

「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」だという名言は有名です。論理的には、好意の感情も嫌悪の感情も、心が揺さぶり動いているので関心があるということに違いないという内容です。嫌いな人のことを好きになったり、好きな人への愛が受け入れられないために反動でその相手を嫌いになったりするケースもあります。

ところが、無関心な人に対してはそのような感情がわかないので、好きの反対は無関心であるという証明になります。無関心、つまり「どうでもいい」ということです。

マザー・テレサが言った!?

それでは、この「好きの反対は無関心」という名言は誰のものでしょう。

日本では、この名言はマザー・テレサが言ったと誤解された記事を多く見かけます。1981年の公共広告機構の広告キャンペーンがその誤解の原因とされています。その証拠に、日本以外の国ではこの言葉をマザー・テレサが言ったというイメージは皆無です。当時の実際の広告は以下のリンクから見ることができます。

じゃあ、誰なの?

では、この名言「好きの反対は無関心」の元は誰の言葉かというと、それはハンガリー出身のユダヤ人作家、エリ・ヴィーゼル氏(1928-2016)の言葉です。彼は自らのホロコースト経験を自伝的に書き、ノーベル平和賞も受賞しています。彼は「愛の反対は無関心」と言ってます。

エリは、愛の反対が無関心であるのみならず、美の反対も醜さではなく、信仰の反対も異端ではなく、生の反対も死ではなく、すべて無関心であると言いました。彼は、ユダヤ人というだけで少年時代に受けた不条理と、それに手を差し伸べられない民衆をみたことで、愛の反対は憎悪ではなく関心をもたないことだと考えました。

「好きの反対は無関心」を大胆論破した東京大学物語

江川達也氏の代表作「東京大学物語」では、多くのテーマのひとつに「好きの反対は無関心」をあげることができます。この漫画は、主人公の村上直樹と水野遥が、お互いを好きになったり嫌いになったりしながら成熟していく様を描いています。

第315回、村上と同じく東大に通う谷口は、村上の存在が気になり、その反動として彼の生き方を「気に食わない」と否定します。それに村上は怒り、それほどつっかかってくる谷口は実は村上のことが好きなのではないかと責めます。それに対し、谷口は村上を大嫌いだと言いますが、村上は「実際に好きじゃなくなったら無関心になるんだと」と言いその場を立ち去ります。

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連載当時から読んでいて(今からなんと20年以上前)
懐かしさに負けてKindle版を購入。
やっぱ上手い。話が、絵が。

確かに巻が進につれて村上君の変態度が増して
一般人向けでは無くなるが、
1巻は一般人向けである。

今思うと評価されて良い漫画だと思う。

この言葉の重みは?

ところが、物語はこの言葉で新たな展開になるのかと思いきや、次のシーンでは谷口はそれでも村上についていきます。そして村上が自分の恋にくじけて、それでも谷口は彼を責め続けます。「好きの反対は無関心」この言葉の重みがほとんどなかったこととして物語は進みます。

その後の展開と結論

その後、村上は谷口を好きになり、彼女のファーストキスを奪ってしまいます。ところが、ここから谷口の村上に対する感情は「嫌い」に変わります。「嫌い」になっても彼女は村上に関心を持ち続けますが、彼がどうアプローチしても彼女の心が村上に傾くことはありませんでした。

もし「好きの反対は無関心」ならば、谷口の村上に対する感情である「嫌い」は、「無関心」ではないので「好き」に変わる展開になりますが、この漫画では「そんなことはない」と言うかのように、この恋については無情な結末をむかえます。

漫画全般を通して言えることですが、頭脳明晰で容姿端麗の東大生村上は「うぬぼれ屋」と描かれており、彼の言う台詞の多くは勘違いとなるので、「好きの反対は無関心」という言葉を村上が使ったことの作者の意図が伺えます。

「好きの反対は無関心」は納得できない?

このように、好きの反対は無関心という言葉に対し、否定的な見解を示す例は枚挙にいとまがありません。なぜなら、この言葉には明らかな反証ができるからです。以下で具体例をみていきます。

矛盾するたとえ

たとえば、Aさんのことが好きなB君がいるとします。B君はAさんに関心を持ってもらいたくて、彼女のノートに落書きをしました。Aさんはお気に入りのノートに落書きをされたことで、B君を嫌いになりました。それまでのAさんはB君に対して無関心だったので、この場合、B君はAさんにとって無関心よりマシな存在と言えるでしょうか。

無関心より嫌われる方が好きから遠い場合

もし「好きの反対は無関心」が正しいとするならば、上記のたとえで、B君はこれまでAさんにとって無関心な存在であったため、嫌われることでめでたく好きへの第一歩を踏み出したと言えます。

しかし、この場合、Aさんは自分のノートがお気に入りだったという関心から、そのノートに落書きをしたという理由でB君を嫌いになったのであり、彼に対してそれ以外の感情を抱いていません。そのため、B君はただ嫌われただけで、Aさんにとって好きになる可能性はむしろ減ったといえます。

好きの反対は無関心ならば、B君は嫌われることで「好き」の反対でなくなったのですが、より一層「好き」から遠のいたということは「好きの反対は無関心」とは矛盾する結果となったといえます。このケースの場合、好きの反対は嫌いとなります。

「好きの反対は無関心」の意味と使い方

「好きの反対は無関心」は、先にふれたように元は「愛の反対は無関心」が正確な翻訳です。つまり、厳密にいうと「好き」と「愛」は異なる言葉になります。

この言葉のもともとの意味は、愛という関心ごとを持てないものには無関心であるから、好きの反対は無関心ということです。そのため、ここで示される「愛」は利己的な恋愛感情のことを指すわけではなく、貧困への愛や被差別者への愛など、利他的で道徳的な愛のことを示しています。

その言葉が一般生活になじんだどき、好きな人に嫌われた相手に対する慰めの言葉として使われるようになりました。つまり、嫌われることもその相手の感情を動かすことだから、無関心でいられるよりもマシだということです。しかし、上記のたとえに挙げたとおり、この言葉は必ずしも真であるとは言えません。

じゃあ嫌いの反対は?

もう一つ、興味深い思考をします。それは、好きの反対は無関心ならば、嫌いの反対はなんであるかという疑問です。

これには2とおりの考え方があります。

初回公開日:2018年04月13日

記載されている内容は2018年04月13日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。
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